2008年01月28日

ゲームブック衰退原因に関する個人的考察

 今更と言えば今更なんですが、昨夜山口プリンさんの「冒険記録日誌」を一通りざっと読ませて頂きました。いや〜面白い! そしてゲームブックに対する愛情が詰まっている。自ら「甘口」とおっしゃられている通り、あまり出来や評判の良くない作品にも酷評を下したりせず、(プリンさん自身にとっての)公正かつ公平な判断により、きわめて暖かい視点から各作品を紹介しておられます。その量がまた圧巻の一言。「絶対に名作ベストテンなんかに入ってこないようなヘンテコな作品を一つずつ紹介していきたい」と常々思っている私なんですが、相当なマイナー(だと思われる)作品もほとんどが既にプリンさんの手で紹介されており私の出番はもはや全くありません(苦笑)。
 作品紹介だけでなく様々な企画も面白く、特に「ソーサリーの魔法レッスン」は最高でひたすら笑い転げました(02年4月17日に「その1」があり、その後も日を隔てて今のところ全9回発表されています)。ソーサリーを知らない人はこれを見て「へー、ソーサリーってこんな風な魔法が出て来てこんな風に使うんだ」と興味を抱いてくださいませ(笑)。
 またゲームブック全般についての考えや思い出等も共感する部分が多々あり、「うんうんそうそう」「そうだったそうだった」と頷く事しきり。違っていたのは「ドラゴン・ファンタジー」シリーズ(グレイルクエスト)をリアルタイムで経験されていなかったのと「ウォーロック」を当時ほとんど読んでおられなかったことくらいで、TRPGについてイマイチ強い興味が持てずに「ウォーロック」の特集記事を読み飛ばしてしまうのも同感です(苦笑)。

 そんな中、なぜゲームブックが衰退したかについて非常に丁寧に考察された文章がありました(04年8月6日)。ゲームブック衰退論についてはおそらくあちこちで既に論議されていることだと思われますが、今更ながら山口プリンさんの見解を補足する形で、私も自身の考えを述べてみたいと思います(誤解の無いようあらかじめ断っておきますが、プリンさんに強い反論を示したいわけではありません)。

 粗製濫造説と、それに対するプリンさんの否定見解については非常に考えさせられました。特に「自分の好き嫌いの話ならいいですが、なにが粗悪かなんて自分の考えで決めつけないで欲しいと思います。」という一言には胸を打たれました。私もこのブログで度々「粗製濫造」という言葉を使っており、そしてその言葉を使う時には双葉文庫のファミコン・ゲームブックのことが脳裏をよぎっていたりします。もちろん双葉文庫以外にもおそらく駄作はあるのでしょうが、自分がきちんと体験していない見知らぬ作品について批評を下すのは意味も無ければその資格もありません。また双葉文庫にもそれなりに面白い作品や傑作があることは承知していますが、「粗製濫造」という時に双葉文庫を思い浮かべてしまう人はきっと多いのではないかと思います。因みに、今でこそ私は双葉文庫や勁文社のファミコンゲームブックにも愛情を持って楽しむ事ができますが、ブーム当時「ウォーロック」誌で粗製濫造がどうこうという話が出て来ると、幼心にも脳裏に「あぁ、あのファミコンを題材にした奴のこと言ってんだな」と感じていました。プリンさんは双葉文庫のファミコン・ゲームブックシリーズに強い愛着を持っておられ、双葉文庫の面白さ自体を擁護する形で粗製濫造説を否定しておられ(るのだと思い)ますが、双葉文庫作品の質はとりあえず別問題として「粗製濫造はゲームブック衰退の(一因ではあったかもしれないが)大きな要因では無かった」という見解には私も同意しています。ここでは、粗製濫造と言う際に「粗製=双葉文庫」という構図が何故起こりやすいかということ、そして粗製濫造説(も含めてプリンさんが取り上げた様々な説)以外で私が考えるゲームブック衰退の原因について考察してみたいと思います。

 
 双葉文庫及び勁文社から出版されていたファミコンゲームを題材とした諸作品についてはそれを体験した時期も関係して、とにかく「あれを面白いと感じた人とつまらないと感じた人がいる」ということがまずあります。プリンさんはゲームブック初体験が双葉文庫だったということもあってか、双葉文庫の作品を「面白い」と感じたようです。しかし、結局のところ双葉文庫の諸作品(もちろん他の出版社の作品でもそうですが)を当時「つまらない」と感じた人には、今振り返るとそれらが「粗製濫造されたもの」に思えてしまうということがあるのではないかと思います。

 私の場合既にFFシリーズやドラゴンファンタジー、ソーサリー等を経験した後に双葉文庫を体験しましたが、それ以前に勁文社の(あの悪名高き)「ドルアーガの塔・外伝」を経験しておりました。また「ドルアーガ」と言えばご存知鈴木直人氏の名作「ドルアーガ三部作(創元推理文庫)」がありますが、外伝を経験した後にあれをやったことで一層「あぁ、これに比べるとあの外伝はつまらなかったなぁ」という刷り込みが産まれました(今読み返すとあのトンデモ設定がたまらなく楽しいんですが)。そして、つまらなかった(と私が思った)ドルアーガ外伝は戦闘システムに「バトルポイント表」を使用しており、双葉文庫のファミコンシリーズもこのシステムを採用しています(これに関しては私は2〜3作品程度しか確認しておりませんので断言出来かねますが確かほとんどの双葉作品はこのシステムではなかったかと記憶しています)。この「バトルポイント表」を使った戦闘システム自体に関してはプリンさんもやや否定的な見解を示しておられますし、好みの問題もありますが一般論としても、このシステムは戦闘システムとしてあまり面白くない、と言ってしまっていいと思います。私は当時、既にソーサリー等を経験してしまっていたせいで「バトルポイント表を使っているゲームブック=駄作」というように強く感じてしまいました。つまらなかった「ドルアーガ外伝」と同じシステムだったということが、おそらく無意識下で「あのシステムのものはつまらない」と感じる要因にもなっていたことでしょう。

 次に、双葉文庫の作品は文章があまり上手くない(しっかりした文章構成力、描写力を持った作家が書いていない)ということが言えるのではないかと思います。というか以前はそう思っていました。これに関しては今は考えを改めているところですが「昔はこう考えていた」ということで異論を承知で少し述べてみます。
 実は私は双葉文庫について能書きを垂れることが許されないくらいに、そもそも双葉文庫作品をプレイしておりません。現在所有しているのは「月風魔伝 魔暦元年の戦い」のみです。よって双葉文庫の他の作品、スタジオ・ハード作の他の作品に高いレベルの文章の、上手い作家による作品があるであろうこと、それを私が読んでいないだけだということはあります。…んが、成人してから「月風魔伝」を読み返した時に「文章が稚拙だなぁ、きっと若い作家の卵を使ってゲームブックを量産していたんだな」と感じたのは事実です。内容自体は(原作ゲームには無いプロローグ等)頑張っている部分もありそれほどひどい出来でもないんですけどね(訂正追記→改めて読み返してみたら下手ってほどでもありませんね。低年齢層向けということもふまえれば別段稚拙と言える文章でもない気がします。そう感じた当時はよっぽど小難しい本読んでたのかなぁ…?)。ただ、文章の善し悪し等しっかりわからないであろう当時であっても「創元や社会思想社のものほど面白くない」という事は感じていました。私のように、面白い(と自分が感じる事ができた)双葉文庫作品に当時出会えなかった人が、振り返って「あれらは面白くなかった、粗製濫造だった」という印象を抱くことになっている可能性はあります。

 プリンさんの言われる「面白いかどうかは立ち読みして見極めることが出来たはず」という意見には私は疑問があります。ゲームブックはちょっと立ち読みしただけで面白いかどうか見極められないものではないかと私は思いますし、プリンさんのように「じっくり時間をかけて吟味」した(あるいは吟味することが可能だった)人たちばかりとは限りません。特にファミコン原作のゲームブックはその原作ゲームの代替としてゲームブックを買ったり、原作ゲームのファンだからということで中身も見ずに「指名買い」するケースがありえますので、「買ってみたら面白くなくてがっかり」し、双葉文庫に良いイメージを持たなかった人もいるのではないかと思います。

 ファミコン・ゲームブックは原作ゲームの代替物として人気があった、とすると次に言えるのは「双葉文庫や勁文社の作品はそもそもゲームの代替にならないようなものがあった」ということです。一作目の副題は「マリオを救え!」であって自分がマリオでは無い(ようです)し、プリンさんの冒険記録日誌で知りましたが「謎の村雨城」では実は現代の少年が主人公だったり、勁文社の「ドルアーガ外伝」ほどぶっ飛んではいないものの(苦笑)オリジナルな設定があるものが多かったのではないかと思います(この辺はうろ覚えな記憶と推測です済みません)。今でこそそのオリジナルっぷりも双葉文庫作品の魅力として楽しむ事が出来るのですが、当時ゲームの代替として購入した人たちはなんとなく釈然としない気持ちを抱いたのではないでしょうか。

 私が「双葉文庫に代表されるファミコン・ゲームブックが粗製濫造されたゲームブックの例としてあげられる原因」だと考えるのは大体こんなところですが、この辺りで話を「衰退論」の方に切り替えます。
 私の持論は概ねプリンさんのまとめた説の中の「TVゲーム移行説」とかぶるのですが、私はこれにもう少し補足したいと思います。ファミコン・ゲームブックがその原作ゲームの代替物として売れていた、あるいはゲームブック自体がTVゲームの代替物として売れていたという側面をふまえて「TVゲームの方が面白くなっちゃったから」ということはもちろん言えると思うのですが、代替物としてゲームブックを購入していた人たちの中にはそもそも「ファミコン本体を持っていない」という人たちが多かったのではないかと思うのです。あるいは本体は持ってるけどあのゲームは持っていない、だから代替としてこのファミコン・ゲームブックが欲しい、という人。それらの購買層が、家庭へのファミコン普及率が上がって行くことによってゲームブックを必要としなくなっていったのではないかと。ファミコンの普及率全体があがれば自分がやりたい(けど買えない)ソフトを持っている友達がクラスにいる確立があがるわけなので、ますます代替物としてのゲームブックは要らなくなります。

 私もプリンさんと同じく「TRPG移行説」には否定的ですが、「TRPG移行説」も一つの要因であったとは思います。TVゲームに移行した、あるいは「持ってなかったから渋々ゲームブックで我慢していた」という人がゲーム機を手にする事でゲームブックを買わなくなったのも一つの要因であると思います。ゲームブック衰退の原因は複合的なものでしょう。ただ、「何かに移行」した影には結局はプリンさんの言われる通り「飽きちゃった説」があると思います。あとは、TVゲームは面倒な計算をやってくれるから楽だ、ということも。
 当時「ウォーロック」を定期購読し(特集記事やレビュー記事に感化されて)「TVゲームにも小説にも無いゲームブックならではの魅力」についてそれなりに意見も関心もあった私でもやはりどんどん進化していくファミコンソフトや奇麗なグラフィックのパソコンゲームの方に強く惹かれて行ったのは事実ですし、「ゲームブックならではの面白さ」に価値を見出すことがなかった人にとってはなおさら「面倒さ」と「飽き」は決定的だったと思います。因みに私の場合はこれに(私生活環境の変化に伴う)「忙しさ」が加わり尚更ゲームブックで遊ばなくなりました…と思っていましたが、よく考えてみればそれでもTVゲームはしっかりやっていましたので忙しさはあまり関係なかったかもしれません。それと、「ウォーロック」がTRPGの方に注力してしまって面白い新作ゲームブックに対する情報が乏しくなったのも、私にとってはゲームブック離れの一因になっていました。

 …と、まぁプリンさんの文章に触発されてついだらだらと言いたくなってしまったのは大体こんなところです。なんだかまとまりがなくて済みません。最後に、軽はずみに「粗製濫造」と言ったり自分がつまらないと思う作品を「凡作・駄作」として悪し様にけなすことは今後は極力控えたいと思います(どうにも褒めようが無い凄まじくひどい作品が見つかったらそれはそう書くかもしれませんが、それでも「自分はそう感じた」というだけで一般論とはしないようにします)。
posted by SeireiK at 01:02| Comment(2) | TrackBack(0) | ゲームブック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私的にはゲームブックの作家ではスティーブ・ジャクソンやハービー・ブレナン、イアン・リビングストン等の海外作家、鈴木直人、安田均、林友彦よりも実は、双葉社や勁文社、講談社、光文社等で活動されていたスタジオ・ハードさんが一番好きでした…。

理由としては、表紙や挿絵イラストが漫画調のイラストで、カッコいい物があれば、可愛い物もあるし、それぞれの作家に存在する個性的なギャグ、余ったパラグラフを使ったお遊び心(後書きの続き、プレイヤー能力の書き換えポイント、ミニゲームブック、他のゲームブック作品の宣伝)が存在しているため、海外作家や鈴木直人、安田均、林友彦にはない、独特の色が存在するのが良い所かもね…。




Posted by マイケル村田 at 2016年07月05日 21:16
コメントありがとうございます。
スタジオ・ハード好きな方にはあまり面白くなかったでしょうにすみません。古い記事なので自分でも「あ〜こんなこと書いてたんだ〜」って読み直しました(汗)。

表紙や挿絵イラストが漫画調、ギャグ、パラグラフが余っている、こういったことが「子供っぽい」感じがして私はあまり好きではなかった記憶があります。今ならその魅力もわかるんですが、小学校高学年〜中学当時は創元社ゲームブックのかっちりした作りが「大人っぽくてカッコいい」と思えていたのでしょうね。
Posted by SeireiK at 2016年07月10日 18:29
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